北朝鮮、具体的には朝鮮民主主義人民共和国を指す言葉として「北鮮」という言葉がある。この言葉は、現在の日本ではおそらく「差別語」として忌避されているもののひとつだ。また、それに関係するものとして朝鮮人を表す「鮮人」も同様に「差別語」とされている。
「北鮮」「鮮人」を差別語と主張する人がどのような論理を用いているか。たとえばこの岩垂弘の記事「いまなお残る差別語 - リベラル21」は、その典型的なもののひとつだ。この記事の中で、岩垂は「北鮮」や「鮮人」が差別語であることの論拠として『朝鮮人差別とことば』(1986年/明石書店)を引用している。以下はその孫引き。
私たちは、先に、朝鮮人をさす呼称「鮮人」という言葉が、一九一〇年の日本の朝鮮植民地化とともに生まれ、「大日本帝国の植民地支配下にあり、民族国家として独立できない気の毒なだめな人々」という語感をもつ、帝国主義的な侮蔑の言葉として使われてきたことを明らかにした。そこでくわしくのべたが、「鮮人」という言葉の発生について、もう一度要約すれば、次の通りである。
一九一〇年以前には、「鮮人」という言葉はまったくなく、韓国人・韓人・韓民という言葉を中心に、朝鮮人という言葉も併用されていた。それが、一九一〇年八月の「日韓併合」とともに、朝鮮が独立国家であることを否定する意図から、従来の「韓国人」「韓人」の使用が禁止された。そして一旦は、「朝鮮人」が多く用いられていたが、一九一〇年一〇月頃、急に「鮮人」という言葉が新聞紙上に見えはじめ、短期間内に急激に一般化していった。「朝鮮」が国家であることを否定して「大日本帝国の植民地朝鮮」という意味で用い、しかもわざわざ下の文字だけをとって単に「鮮」と呼ぶ造語法は、「鮮人」だけではない。ごくひんぱんに使われた言葉だけをあげても、「日鮮」「内鮮」「満鮮」「在鮮」「渡鮮」「北鮮」「南鮮」などがあり、そのいずれもが、「鮮人」とあい前後して同じ理由から生まれた帝国主義言語である。
上記のうち、「鮮人」という言葉が「大日本帝国の植民地支配下にあり、民族国家として独立できない気の毒なだめな人々」という語感をもつ、帝国主義的な侮蔑の言葉として使われてきたこと」は、一面で事実であったと思う。その点について異論のある人も多いだろうが、ここではいったん事実と仮定しておく。
そのうえで、上記引用部分における「鮮人」という言葉の由来についての見解は、ほぼデタラメである。
当時の日本人が《「朝鮮」が国家であることを否定して「大日本帝国の植民地朝鮮」という意味で用い》たのはその通りだっただろう。しかし、日本は大韓帝国を併合して大日本帝国の一地方とし、「内鮮一体」をスローガンに掲げて朝鮮人を日本人化しようとしたのだから、「国家であることを否定」した用語が使われたのは時代状況からすれば当然だ。それが植民地主義・帝国主義として批判されることは当然だとしても、その批判はなお「鮮人」という語そのものの意味や成り立ちやとは関係がない。
『朝鮮人差別とことば』は、次にそれらの傍証として《わざわざ下の文字だけをとって単に「鮮」と呼ぶ造語法》を問題にする。そしてその「わざわざ下の文字だけをとっ」てつくられた朝鮮人にまつわるさまざまな熟語を、「帝国主義言語」だとする。
しかし、これはとくに侮蔑対象、差別する対象に向けた特殊な造語法でもなんでもなく、日本語の地名造語法としてはごく一般的なものなのだ。
たとえば東京と名古屋を結ぶ高速道路は東名高速だが、名古屋と大阪を結ぶ道路は名阪自動車道である。大阪神戸を合体させた「阪神」という言葉は大阪の部分が「わざわざ下の文字だけをとっ」てつくられているが、だからといって大阪を神戸より下に見たものだと考える人はいないだろう。あるいは、旧出羽国である秋田県は当時羽後と称され、現在でも秋田県北は北羽と呼ぶ。旧伊予国であった愛媛南部は南予地方である。すなわちこの《わざわざ下の文字だけをと》る造語法は帝国主義とも侮蔑とも、まったく無関係であり、「わざわざ」という認識そのものが先入観による後付の解釈にすぎないのだ。
「北鮮は差別語」と思っている自称リベラルな人達の中に、この「わざわざ頭の文字をとった」ということを問題視している人は多く、そういう人たちが発生したのも80年代末ぐらいだったように記憶しているが、そのソースがこの明石書店の本だったのかどうかは知らない。しかしこの《わざわざ下の文字だけをとって単に「鮮」と呼ぶ造語法》については、ネットではまことしやかに、あるいは使用者に対する侮蔑を込めてこのような語られ方をするのだ。
じゃ、「北朝鮮」が「北鮮」でいいなら、「こまち」さんも「こち」でいいわけだ。今度からそう呼びましょうか?
(「追い出せ!強のトリ」掲示板 における高橋亨の発言)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/sabetsu-hokusen.htm
こんなものはダジャレによるいいがかりにすぎない。
ある語彙が侮蔑的な意味で使われ、それによってその語彙で指し示される当事者たちが不快に思うということは往々にして起こりうることであり、それを受けてその語彙の使用を控えるということは当然にあっていいことだし、推奨されるべきでもあるだろう。しかし、それはその語彙が「元から差別的な意味合いでつくられた言葉」であることを意味しない。
「差別語」の理論構築には、このようにしばしば言語学・日本語学的な観点から見れば噴飯ものでしかないこじつけ、ダジャレ、語源俗解(字面に引きずられてあとからこじつけの解釈をすること)の類が紛れ込んでいる。そしてその部分が「みんなが侮蔑や差別の意味を込めてこの言葉をつくり、使用したのだ」という負の物語として語り継がれていくのだ。これは一種の都市伝説である。さらにそれらの語彙を「差別語」という呼称でカテゴライズすることによって、その物語は固定化され、再生産される。なぜなら、「差別語」は、文字通り「差別のための言葉」「差別用に使われる言葉」と解釈されるのが普通だからだ。
まずここまでをまとめておく。
「北鮮」に関しても、同じような「物語」がまことしやかに語られてきた。しかし少し年のいった人なら、自分より上の世代、父母祖父母の世代の人がごく普通に「北鮮」という言葉を使っていたの記憶しているはずだ。冒頭に紹介した岩垂弘のブログ記事からして、その体験から書き起こされている。
暮れに西日本の牧師から送られてきた個人通信を読んでいて、目を見張った。「北鮮」という文字があったからである。
(中略)
私はいまでも大学時代の同級生とたまに会って雑談を交わすが、話が朝鮮民主主義人民共和国のことに及ぶと、彼は盛んに「北鮮が」「北鮮は」と口にする。
岩垂はこれらの体験から「こうした差別語がいまだにまかり通っていることに改めて日本人の歴史認識の希薄さを痛感した」と言うが、これは自身の歴史認識による先入観と日本語への無知無理解からくる誤解である。《日本人の歴史認識の希薄さを痛感》することは私もしょっちゅうあるし、それ自体はいいのだが、友人からの手紙に「北鮮」の文字を見つけただけでそこへひとっ飛びするのは単なる勘違いである。
「日本人のその世代の人が朝鮮半島北部の国家をさして「北鮮」と呼ぶのは、差別とも歴史認識とも何の関係もない。現在の日本人が朝鮮民主主義人民共和国のことを「北朝鮮」と呼んでいるのと全く同じである。「北朝鮮ではなく正式国名で呼ぶべし」という議論は現在もあるが、それは差別云々とは関係がない。ところが、この記事の中でも岩垂は、前掲の『朝鮮人差別とことば』から以下のような文言を引いている。
日本の体制側は分断された一方の韓国の政権にのみ正統性を認めようとする政治的意図から、「南鮮」という言葉の方はしだいに「韓国」におきかえながら、一方の「北鮮」をそのまま使い続け、そこに共和国を国家として認めまいとする意図を露骨に示した。このような政治的影響のもとで、とりわけ日韓条約前後から「韓国」「北鮮」をセットにして使う言葉の使い分けが拡がってゆき、「北鮮」が、最もひんぱんに用いられる現代差別語の典型となっているのである
これは北朝鮮本国あるいは総連の言い分をそのまま代弁しているだけである。国家体制がどの国に正統性を認めるかという話と差別云々はそもそも無関係であり、そのことと「北鮮」という用語の使用はさらに関係がない。「北朝鮮」を差別語とする立場も同じ理屈から導かれるのだが、そもそも韓国政府は北朝鮮を国家として認めていないために朝鮮民主主義人民共和国を指して「北韓」と言うわけで、韓国籍を持つ在日韓国人だって公式には北朝鮮を国家とは認めていないことになっている。しかしそれらが北朝鮮への差別になるわけではない。
日本語話者は、ドイツが東西に分かれているときは東ドイツ・西ドイツといい、アメリカ合衆国の国土であるハワイを単にハワイと言い、ロシアの一部を「北方領土」と称してきたのである。「北朝鮮」「北鮮/南鮮」という語は、それらと同様の用法にすぎない。
つまりこれは第一義的には日常レベルでの国名呼称習慣の問題にすぎず、第二義的には国家間の政治的・外交的な都合にすぎず、差別とも「歴史認識の希薄さ」とも何の関係もないのだ。差別の問題でないことを差別の問題に偽装して語るのは極めて悪辣な欺瞞である。
この世代の人の「北鮮」の用法に一般的にいって差別的ニュアンスなどなかったことは、よど号ハイジャック事件で田宮高麿が書いた声明文に、北朝鮮を称して「北鮮」とあることからもあきらかである。これから飛行機をハイジャックしてまで渡航を切望し、革命の先達として自分たちに訓練を施してほしいと思っていたよど号ハイジャック・グループが、相手国を「差別」していたなどということはありえない。
逆に、70年代に描かれた『はだしのゲン』にはゲンや周りの大人たちが朝鮮人を侮蔑し、差別する描写が頻繁に登場するが、ここで使われている言葉は「鮮人」ではなく「朝鮮人」あるいは「チョーセン」である。「北鮮」という言葉は、朝鮮戦争が起きた経緯についてゲンがクソ森に解説しているときに「北鮮軍」として出てくる。朴さんがゲンの家の裏に住んでいた原爆投下前ならともかく、この時期になってゲンが朝鮮人に差別的な感情を抱いてこの言葉を使ったと解釈する人はいないと思う。
すなわちこれらのことから言えるのは、
「北鮮」「鮮人」といった言葉は、戦後の朝鮮人差別の中で差別者から被差別の当事者に向けて使われたために「忌まわしい語」と考えられるようになった。「朝鮮」ですら、80年代にはなにか声をひそめて言わなければならない雰囲気が確かにあった。同時に、当時は韓国と北朝鮮の政治的対立によって在日朝鮮人や朝鮮語をどのように呼ぶかが論議の的となり、折衷案として「在日韓国・朝鮮人」がPolitically Correctであるとされ、NHKの朝鮮語講座は開講にあたって番組名に「韓国語」も「朝鮮語」も使わず、「ハングル講座」とした。そうした中で、死語となりつつあった「北鮮」「鮮人」に、すべてのスティグマが押しつけられたのだった。
もう一度強調しておくが、「つくられた負の物語」を原因としていたとしても、「北鮮」「鮮人」といった呼称を好まない人が多いということは事実であり、そのことは重視すべきである。しかし、「北朝鮮」といった呼称についても同様に「差別語」だとする人はいる。そう考える人の前では当然使用を控えたほうがいいに決まっているが、だからといって「北朝鮮」をメディアやIMEから抹殺してしまおうなどという発想にはならないはずだ。
「北鮮」「鮮人」「支那」といった語は、多くは同様の事情によって忌避されているにすぎないのであり、「元から差別的な意味を持っていた」のでも「差別用」につくられた言葉でもない。まして国語辞典において「卑語」の範疇に入れてしまうのはまったくの誤りである。
「差別語」を糾弾するにせよなんにせよ、扱う場合にはそうした歴史的経緯を踏まえた上での議論をしなければいけない。「差別に使われたから差別語」といった稚拙な論理では、より悪辣なバックラッシュを招く要因になりこそすれ、差別の解消には何の役にも立たないと思う。
前回のエントリー で、再定義なしの「差別語」を前提とすることの危険性を指摘した。
一般的な意味でのカギカッコなしの差別語などというものそれ自体が、「存在しえない」ものでしかない
これは理論上そうなるということで、本来は言葉の分類はすべて曖昧である。差別語や侮蔑語といった語彙のカテゴリーだけでなく、たとえば日本語においては「人称代名詞」「形容詞」といった文法カテゴリーにおいてすら、それが「人称代名詞」「形容詞」なのかどうなのか、議論が分かれていたりする。
特定の語彙の種類を「差別語」「卑語」のように用法で分類する場合は、その曖昧さは文法カテゴリー分類の比ではなく、ほとんどの場合、社会的・政治的な意思に左右されていると見ていい。だからある文の「正しさ」について論じるときに、それが「言語としての日本語の正しさ」なのか、「政治的な正しさ」(Political Correctness)なのか、常に峻別しておく必要がある。
ATOKのような日本語入力プログラムに求められる正しさは通常、「言語としての日本語としての正しさ」のほうであって、「政治的正しさ」ではない。これは、日本語入力プログラムがペンや鉛筆、辞書といった文房具と同様に、文を書き表すツールのひとつでしかないからである。
たとえばある二つの入力プログラムAとBがあったとして、それで作成した文が以下のようなものだったとする。
(Aの入力プログラム)
多数はのふいんきでまいのりてぃの人権心外を換価すべきでない。
(Bの入力プログラム)
野蛮な黒人の人権など保護すべきでない。
Aは政治的に正しいが文法と文字変換が間違った非文である。Bはその逆。この場合、入力プログラムの性能はAではなくBを目指すべきなのは当然である。「日本語として正しい」のはBのほうだからだ。文の「正しさ」には、「内容の正しさ」「政治的正当性」以外に「言語としての正しさ」というメタ・レベルの正しさがあり、その両者は基本的に無関係である。
このメタ・レベルでの「正しさ」の存在を認識できないと、「言葉狩り」に異を唱える者に対して「そこまでして使いたければ単語登録でもすればいいのに」などと思ってしまうのも当然だろう。言うまでもなく「単語登録」できるか否かは上記例文Aの正しさとは関係がなく、どこまでいっても例文Bの正しさで判断されるべき事項にすぎないのである。
また、小倉秀夫のように
これらの語彙は天下のジャストシステムに認めてもらった正しい言葉だ、その使用は問題視されるべきではない!!ってお墨付きがほしいの?
http://twitter.com/Hideo_Ogura/status/38794425358491648
であるとか、あるいは高史明のように
ATOKは”正しい日本語”を売りにしている以上、差別語を登録してたとえそれが差別を促進するような目的でなかったとしても、差別を促進する効果がある可能性があるとすれば、社会的責任を負う
http://twitter.com/Fumiaki_Taka/status/39745346359934976
などと間抜けなことを言ってしまう原因にもなる。
「差別語」に関する議論が噛み合わない場合、ほとんどが「言葉狩り」推進論者の側がこのメタ・レベルでの認識を欠いていることが多い。ある文章について「表現された内容の社会的正当性」と「文法的正しさ」が別の問題であるように、「表現された内容の正当性」と「言語とそれにまつわるツールとしての正しさ」は異なっている。
「ATOKは言葉狩りをやめよ」という指摘は、政治的正しさへの介入をやめて(あるいは最小限にして)ツールとしての機能に徹しろという主張であり、これは言語の「正しさ」の意味を普通に理解していれば、賛成するか否かを抜きにしても、当然に了解可能な論理のはずである。
ある言葉を「使う」ということは、必ずしもその語彙で表現されたものを「肯定する」という意味にはならない。その語彙で表現されたものを批判するときにもその言語を「使う」し、肯定否定とは別次元の内容を表現する際にもその言葉を「使う」のが通常の表現活動である。たとえば「差別語」を非難する場合にも、当然にその「差別語」を指摘しなければいけないのだから、ここでの「差別語の使用」が「差別する」と同義でないことは全く自明のことである。
入力プログラムが文字入力を滞りなく行うためのものであるなら、「差別語」であろうが別の語彙であろうが、それらはまったく等価に(日本語入力プログラムの効率のみを基準として)扱われなければならない。
小倉は
ジャストシステムは差別語を使いたい人がスムーズに差別語を入力できるように差別語を標準辞書に組み入れろ、それは差別表現を推奨しているのでも、自分が差別表現をしたいのでもないと言われてもね
http://twitter.com/Hideo_Ogura/status/38850543430537216
と言っているが、「言われてもね」なんて言われてもね(笑)。
小倉の言う「差別語」を入力することは「差別表現を推奨」「自分が差別表現をしたい」とイコールではありえず、それは言語の性質上、まったく自然で常識的なことなのだから、それに納得できないほうに問題があるのだ。
※参考リンク
togetter: ATOKと「差別語」をめぐるあれこれ
http://togetter.com/li/102921
しかも大麻のように気持ちを落ち着かせ感覚を鋭くさせる働きをするのではなく、バッド・トリップした場合はアルコールや幻覚剤のように作用する、タチの悪い麻薬だ。
ある種の人々が、ある言葉を文脈とは無関係に語彙レベルで「差別(用)語」と認定したがるのは何のためか。その多く(ほとんど100%?)は、他人の発話した文の中にその語が含まれているか否かのみによって、その文が差別表現であるかどうかを判断し、含まれている場合は発話者を差別者として非難し、糾弾し、自らを正義の高見に置くためである。これはおそらく、ものすごい快感をもたらすのだろう。いったん中毒になると、正常な判断力は失われ、なかなか常用をやめることができなくなる。
「アルコールや幻覚剤のように」というのは比喩でもなんでもなく、「差別語」に対する固定観念と先入観と偏見によって、文字通り存在しないものが彼らの眼前に現れるのである。まるでアシッド食って鏡を見たらゴリラと肩組んでたとか、腕が痒くて掻いたら肉がポロポロと削げ落ちて緑色の骨だけになっちゃった!とか、そのレベルの幻覚を彼らは見ている。
たとえば社会心理学者の高史明(東京学芸大・神奈川大/非常勤講師)は、ツイッター上でのATOK標準辞書の「言葉狩り」問題に関する私との論争 (高本人によれば、あくまでも私への「おちょくり」)において、私に対し開口一番こう言い放った。
ちょうせん→チョンが変換できるべきならねとうよ→ネトウヨも変換できるべきっていうのが間違った相対化とはこれまたドデカイ天然さんだなぁ
http://twitter.com/Fumiaki_Taka/status/38945965989830656
最初に小倉秀夫との会話として始まり、途中から高史明にスイッチしたこの議論の記録はここにまとまっているが、もちろん私が「ちょうせんと打ってチョン」と変換すべきなどと主張している箇所はない。
その件に関連して私が言及したのは、「何を差別語とするかについてコンセンサスができていないなら、ジャストシステムが自主的に判断するのは当然」で、それに異を唱えるのは「無責任な外野の立場」という小倉秀夫の発言に対して
仮に「ちょうせん」と打って「チョン」と変換されてもあなたはその「自主的な判断」を尊重しますか?
http://twitter.com/kdxn/status/38792199944679424
と問い、「それは機能的におかしい」という小倉の当然の返答を経て、
「ちょうせん」と打って「チョン」と変換されるのが「機能的におかしい」のなら、日常語彙が変換されないのも「機能的におかしい」
http://twitter.com/kdxn/status/38792703126802432
と私が答えている部分である。これが、高史明には「ちょうせん→チョンが変換できるべき」と言っているように見えたらしい。しかし、私がそのような発言をしていないことを指摘すると、彼はこう言ったのだ。
あ、ごめんなさい他の人と間違えましたw誤認されたくなかったら元通り小倉先生のところにお帰り下さいw
http://twitter.com/Fumiaki_Taka/status/38946974799495168
ところが、「他の人」など存在しないのである。この議論の最中に小倉秀夫に対して「ATOKは標準辞書にチョンを収録すべきだ」などというムチャクチャな主張をした人はいない(いたら小倉センセーが黙っているわけがない)。つまり高史明には、私と対話を初めてわずか15分の間に存在しないものが二つも見えたのである。
彼のバッド・トリップはその後もつづく。
「ネトウヨが変換できたらおかしい理由は何ですかネトウヨさん?」
「(白痴という言葉は)歴史の古さはともかく大人は恥ずかしくて使えないという意味ではスラング」
「あなたの政治指向なんか知らないけど差別語に強い執着のある人だというのはよく分かった」
彼は私の「政治指向なんか知らない」状態であるにも関わらず、このForces of Oppression の作者である私が「ネトウヨ」に見え(!)、本屋に並ぶドストエフスキーの小説の表紙にでっかく印刷されている「白痴」がスラングに見え、ATOK標準辞書から「工夫」「小人」「白痴」「下賤」といった特定の語彙が排除されていることに異を唱える者(ここでは私、問題提起の発端は別の人)が「差別語に強い執着のある人」に見えてしまう(このメタ視点の欠如については稿を改める)。
何よりも、自分で相手を「ネトウヨ」呼ばわりした直後に、ネトウヨという言葉を「大人は恥ずかしくて使えないという意味ではスラング」と定義してしまうのだから、これでは高自身が「俺は子供だ」と言っているのと同じである。
つまり、存在しないものは山のように見える一方、自分自身(発言者としての立ち位置、あるいは論理を構築する理性)は完全に見失っているのだ。高史明の現在の研究テーマは「偏見・ステレオタイプ」「攻撃性と自尊心・自己愛 」だそうだが、他人様の偏見や攻撃性、自尊心を研究するよりも、自らの頭をカポッと開けてその中身を研究したほうがよほど早いのではないか?
インターネット上の「議論」で安易に何かを「差別語」認定し、それをもって他者の発言の何かを批判している人たちの多くは、同様の状態に陥る。それは彼らが、誰もが共有できる客観的な概念としての「差別語」が存在すると思いこんでいるからなのだが、これには実は根拠がないのだ。
「差別(用)語」というのはあくまでマスメディアなり何なりが自主的に語彙を集めてガイドラインをつくり運用しているものにすぎず、収録語彙はまちまちである。小倉秀夫の使う「床屋」という言葉だって、かつて放送では「差別語」、あるいはそれと同等の扱いをされていた(呼び名はいろいろある)。
だから当然、ジャストシステムがATOK標準辞書から排除した語彙の中に、他では「差別語」とされていないものが含まれているだろうし、逆に標準辞書に収録た語彙に放送コードその他で「差別語」のように扱われていたものも多数ある。つまりそれらを包括した、一般的な意味でのカギカッコなしの差別語などというものそれ自体が、「存在しえない」のだ。
言語学的な立場からすれば「差別(用)語」などというものが存在しないことなどはすでに常識なのだが、彼らはそのことすら知らない。民族や職業、あるいは身体的特徴など、特定のカテゴリーを貶めるための侮蔑語(その多くはスラング/卑語)は「差別語」にかなり近いが、「工夫」「小人」「白痴」「下賤」がそういった語に該当しないことは明らかだ(そこから説明しなければならないのは、本当に文字通りの意味で相手が子供の場合だけであろう)。
つまり、「言葉狩りをやめよ」という主張は、換言すれば「その言葉は《差別語》ではない」という主張と同義であり、「差別語」というカテゴライズそのものに異議を唱えるものなのだから、それに対して「差別語を使いたい人」だとか「差別語を収録しないとどんな不便があるのか」などとあたかも共有された概念としての「差別語」の存在を前提として反論することには意味がない。それは単純な論点先取であり不当仮定にほかならない。にもかかわらず、上記のまとめリンクにおいて小倉秀夫も高史明も「差別語」という言葉を一切再定義することなく、一切の疑いを持つこともなく、ひたすら自明のものとして使用していることに注目したい。これが「安易な差別語認定」に耽溺する者の特徴である。
そういう状態だから論理で反論できなくなるのは当然で、いきおい「ネトウヨ」だの「酔っぱらい」だの「えらそう」だの「失礼」だの「おちょくっているだけ」だのと、対論者の属性や態度に負のスティグマを刻印し、自分の優位性を強調することだけに汲々としてしまう。高史明が何度も何度も「俺はおちょくってただけなのだ」などと悲痛な叫び声をあげるまでもなく、そんなものが「論争」として成立しないのは当然だろう。
「◯◯は差別語だ」という強固な思い込みは、その論点そのものを見えなくしてしまう、あるいは「なかったことにしてしまう」のである。その上で、彼らはただひたすら対論者をデモナイズすることを繰り返す。いったいなぜ、そのような振る舞いになるのか。
「それが快感だから」以外に合理的な理由は思い当たらない。
Your car is Japanese. Your Vodka is Russian. Your pizza is Italian. Your kebab is Turkish. Your democracy is Greek. Your coffee is Brazilian. Your movies are American. Your tea is Tamil. Your shirt is Indian. Your oil is Saudi Arabian. Your electronics are Chinese. Your numbers Arabic, your letters Latin. And you complain that your neighbor is an immigrant? Pull yourself together! Copy if you’re against racism. — (source unknown)
「被疑者の不起訴を求める意見書(2)」(萩尾健太弁護士) - 12.4 黒い彗星★救援会 -
下記エントリーの事件に関する意見書。
http://kdxn.tumblr.com/post/2132625433/12-4
朝鮮学校いやがらせ事件における公園使用の経過(弁護団第三準備書面より) - はやく仕事しろ>俺 -
京都朝鮮第一初級学校が昭和30年代に地区住民と勧進橋児童公園使用について交わしていた合意の詳細。
渋谷の黒い彗星事件について、NPO外国人犯罪追放運動の有門大輔がごちゃごちゃといいわけのエントリーをアップしつづけているが、事実関係についての反論は皆無なので、実際に起こったことが東京地検に提出されたこの弁護人の意見書通りだと認めているのだろう。総連だの民団だのの名前を挙げて黒い彗星のことをあたかもその構成員であるかのように記述しているが、彼はそのどちらの団体とも無関係である。ましてや「朝鮮マフィアの鉄砲玉」でもなんでもない。ただの在日の学生である。彼はいったいなにをそんなに怖がっているのか。「パトラッシュ」という名前のレストランが犬料理を出していると勘違いして大騒ぎした有門大輔らしいクオリティだと笑っておく。
そんな有門を、私の友人の右翼、群青こと大石規雄さんがmixiの日記で馬鹿にしていたので転載しておく。
2010年12月12日17:22
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1637922623&owner_id=17526852&comment_count=11
(以下転載)
12月4日。在特会、主権回復、排害社などのゴロツキ集団による朝鮮学校攻撃デモが行われ、これに単身抗議した在日コリアンの青年が、デモ参加者から集団暴行を受けた上、なぜか暴行「加害者」として警察に逮捕連行される事件が起こった(現在は釈放)。
これについては、当初青年の側から、デモ参加者に暴力が振るわれたと報道されたが、実際には、抗議の横断幕を広げ、ゆっくりデモ隊の前に歩いて行った青年を、デモ先頭にいた西村修平が飛びついて押さえようとし、青年に振り払われて転び、その後走り寄ってきた他のデモ参加者に青年が集団暴行を受けたというのが事実であり、だいぶ見づらいものだが、その流れを捉えた動画も現在ユーチューブで公開されている。http://www.youtube.com/watch?v=8wqONAt9TZY&feature=related
聞くところでは、排害社の金友隆幸などが、メガフォンで青年の頭を数回殴打したとも言われる。これなどは、行動保守流に言えば「殺人未遂」である。
ただ私は、今回のそれは過剰なものであったとは言え、デモ隊がデモ抗議者や妨害者に対し自己防衛することまでは否定しない。今回の青年はまったくの非暴力的な抗議であったが、場合によっては、そうではない場合もある。とっさにその判断がつかなかったことも考えられよう。
ただし、後になって検証し直せば分かることを、今も「柔道有段者による計画的襲撃」などと、デマを流し続けるのはいかがなものか。そういう言動を見ると、彼らの主張なるものの多くが、そうやって作られるのだな、と断定したくなるし、実際そうなのだろう。
まあしかし、内容はデマとはいえ、多数のデモ隊に武器も持たない単身の抗議者が飛び込んできたことは勇気あること、とも書いたのが、まきやすともや、排害社の金友であった。
「チェ(崔)としても覚悟を持しての行動。」(まき やすとも 政経調査会)
http://makiyasutomo.jugem.jp/?day=20101205「乱入者は一人であり、圧倒的に多数を占めるデモ隊参加者によって取り囲まれた。」(まき やすとも 政経調査会)http://makiyasutomo.jugem.jp/?day=20101206
「突っ込んで来た不逞鮮人は、傲岸不遜厚顔無恥の敵なりと言えども、その民族的気概と勇気は一評に値しよう。逮捕と返り討ちを承知で、一身以て多勢に向う気概は、なかなか真似の出来るものではない。」(排害主義者宣言)http://haigai.exblog.jp/12450237/
思えば私も、立場としては朝鮮学校の現状に問題を感じる人間であるが、そのために民族対立を煽る側には与しない。悪質差別に対する抗議や反撃には、これを肯定、賞賛する者であり、今回の青年の行動に対し素直な感動を覚えた。
このように、立場が異なる人間をも感動させたのが今回の事件だが、これに対し執拗な人格攻撃をし、貶めようと躍起なのが、侍蟻こと有門大輔である。
しかし言うにこと欠いて、父親連れで警察に行っているから情けない、などと言っている。そんなことを問題にするお前の方が情けない。
「一時拘留からの釈放後、自身の父親を伴って警視庁渋谷署に被害届を提出しに行ったという。再捜査の開始で父親に心配させたくなかった旨を『ツイッター』に書き記しているが、自身で襲撃事件を起こしておきながら警察沙汰になるや二十代後半にもなろうかという大の大人が父親まで引っ張り出して被害者ヅラする卑劣さ。」(極右評論)
「こっちが本気になってやってるのに、向こうがオヤジを連れて警察署に出向くなんてどういうことだよ!? 俺はそんな情けない奴に倒されたくなかったよ(西村修平の言葉として)」(極右評論)http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/51628936.html
だから何?という話だが、一応はっきり言っておきたい。
父親に、自分のしたことをちゃんと説明できる人間は恥ずかしくない。それよりも、集団暴行を働いた上、その被害者に嘘デタラメを言い続けるお前ほど恥ずかしい人間はいない。有門大輔は最低な下劣漢である。
「愛国無罪」の下劣な連中が、自らのデマを恥じない日本は、私たちが目指す道義国家日本とは大きく異なるものである。恥知らずどもを黙らせた先に、日本及びアジアの未来はある。
(転載ここまで)
「在日特権」という用語の生みの親が在特会の主張を完全否定? -
「在特会の何に危惧するのか」ブログ「草莽崛起」に掲載された野村旗守の未発表原稿。
このブログへの転載は西村修平からの依頼とあるが、そもそも問題になっている京都の朝鮮初級学校襲撃事件で逮捕された4人のメンバー西村斉、川東大了、中谷辰一郎、 荒巻靖彦は、当時全員が西村の「主権回復を目指す会」の会員であり関西支部の幹部である。西村は自分の子分の悪事を野村に否定させて何がしたいのか。
黒い彗星」氏の行為は在特会の表現の自由に対する不当な侵害であり、許されないか 2010-12-11 - 小熊座
12月4日午後、渋谷・マルイ前の交差点で、「領土奪還一周年記念 京都朝鮮学校解体デモ行進」なる差別・ヘイト・デモの参加者たちが、その主張に抗議する青年に集団で暴行を働き、あろうことか被害者を装って青年を警察につきだし、警察がその青年を逮捕するという事件があった。産経新聞は以下のように報じている。
デモ参加者に飛びかかり妨害するなどしたとして、警視庁渋谷署は4日、暴行の現行犯で、男(27)を逮捕した。 逮捕容疑は、同日午後3時25分ごろ、東京都渋谷区神南の路上で、デモに参加していた60代の男性に飛びかかり、暴行を加えたとしている。 同署などによると、デモの参加者が男を取り押さえ、デモの警備をしていた警察官に引き渡した。デモには約100人が参加し、朝鮮学校に対する抗議活動をしていた。http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101205/crm1012050003000-n1.htm
おそらく警察発表を鵜呑みにしたベタ記事であり、その警察発表自体、自称「被害者」の言い分を鵜呑みにしたものにすぎなかったのだろう。「男(27)」は、渋谷署に2泊して6日の夕方、釈放された。「デモに参加していた60代の男性」とは、おそらくデモを実質的に主導し先頭を歩いていた西村修平(主権回復を目指す会)だと思われる。
その青年、崔檀悦本人から電話で聞いた話によれば、
(1) 「飛びかかって」はいない。
(2) もちろん暴行を加えてもいない。
(3) 逆にトラメガで殴られるなど、集団で暴行を受けてケガをしている。
ということである。詳しい経緯は以下のようなもの。
崔の行動の目的は、抗議アピールを書いた横断幕を真正面からデモ隊につきつけることだった。横断幕には「民族教育の権利を守るぞ!! 阪神教育闘争の精神を受け継ぐぞ!! 祖国統一! 우리는하나(我々はひとつ)- ANTIFA黒い彗星☆」と書かれていた。彼は、それを両手で広げながらデモ隊の先頭に「ゆっくり歩いて」出たのである。その瞬間西村修平がつかみかかり、自分の横に回って引き倒そうとしたため、思わず柔道の技で払ってしまった。※西村の「背中に右腕を添えながら体を右に回転させた」。
その後、先頭集団に囲まれ集団で暴行を受けたという。中でも排害社の金友隆幸は、肩にかけていた大型のトラメガを外しそれで殴ってきたため、崔檀悦はそれを奪って遠くに放り投げた(警察はそのトラメガを崔のものと思い込んで押収しており、釈放時に崔に返却しようとした。自分のものではないと明らかにした上で、トラメガの指紋を取ってくれと申し出たが、拒否されたという)。
すぐさま警察が割って入り、暴行されている崔檀悦を集団から引き離した。ヘイトスピーチに反対する会のブログによれば、《渋谷警察はかれを排外デモから引き剥がし、「保護」と称してかれを渋谷署に連行します。しかし、取調室に到着するや、前言をくつがえして「暴行による現行犯逮捕だ」とかれに告げ、そのまま署に勾留した》。
以上の一部始終は、第三者が撮影したこの動画に記録されている(3分20秒あたりから)。
http://www.youtube.com/watch?v=qvdXPdxFjt8#t=3m20
「被害」を主張する西村修平が率いる主権回復を目指す会がネット上にアップロードした動画や、参加者による「暴行の瞬間」とされる写真もまた、崔檀悦の証言を裏付けている。
まず、「暴行の瞬間」の写真として、以下のものがある。

(画像は有門大輔ブログ『極右評論』より)
ベージュのスーツで斜めに倒れかかっている男が西村修平、その肩に手を回しているのが崔檀悦、そしてその右側で飛びかからんとしている黒い上着の日の丸鉢巻は、西村と同じく主権回復を目指す会の加藤哲史だと思われる。
この写真は、西村修平が「自分の横に回って引き倒そうとしたため、思わず柔道の技で払った」という崔の証言と一致している。ちなみに崔檀悦と話したのは彼が警察から解放された直後で、その時点で彼はネット上にどんな情報が流布されているのかを全く把握しておらず、当然この写真も見ていない。
さらに、「その瞬間」とされる動画がある。
http://www.youtube.com/watch?v=4FLmzsX09fU#t=1m10s
これは「主権」がニコニコ動画にアップしたオフィシャル動画の一部を抜粋したもののようだ。
youtubeにアップされた短縮版には問題の箇所のスローモーション(1分23秒あたりから)があり、それを見ると前進するデモ隊の前に黒い服の男が飛び出し、タックルして西村修平を倒しているように見え、実際にそれが崔であるかのように喧伝されている。しかし崔の証言および上の写真と合わせると、それは巧妙な印象操作にすぎないことがわかる。
飛び出している黒い服の男は白っぽい鉢巻をして日の丸を持っており、明らかにデモ参加者のほうだ。そして上の写真と合わせてみれば、それは加藤哲史でしかありえないことがわかる。この男が「飛び出し」たときには、すでに崔檀悦は西村修平につかみかかられた後なのだ。その崔に、加藤は西村もろともタックルをかけている。崔と西村は同時に倒れているから、仮に倒れたことで西村がケガをしたのだとすれば、その責は半分以上が加藤に帰するものだろう。
騒ぎの起こる直前、10分48秒あたりのシーンにはトラメガを右肩にぶら下げた金友隆幸が写っているが、カット挿入後12分38秒では金友はすでにトラメガを持っていない。以後、デモ終了まで彼は手ぶらである。ビデオのタイムカウンター上ではわずか2分弱。このわずかな時間に、金友はいったいトラメガをどこへやってしまったのだろうか。これも、崔の証言を裏付ける重要な映像である。
つまり、問題の集団暴行シーンは主権回復を目指す会によってバッサリとカットされているのだ。
これまでデモは必ず生中継してきた「行動する保守」だが、この日に日本各地で同時多発的に行われた各種団体のデモの中では、この東京デモだけが生中継されていない。西村修平はこの春からデモの生中継を認めなくなった。在特会その他の会員が、自らの犯罪行為の証拠を嬉々として生中継し、それを録画で公開することに業を煮やしてのことである。その狙いはもちろん、今回のようなことが起きたときに、都合の悪いシーンを「なかったこと」にするためにほかならない。
当日現場にいなかった私が公開された資料と被害者(本当の)本人の証言から言えることは以上だが、こうした「証拠」を検討するまでもなく、事実関係はほぼ最初から推測していた通りだった。なぜそういう推測ができたかというと、これが「行動する保守」のあまりにもお決まりのパターンだからである。
今回もさっそく排害社の金友隆幸が「先頭を歩いていた主権回復を目指す会の西村修平代表を投げ飛し、全治3週間の怪我を負せ、他のデモ参加者に暴行をふるった」などと紋切り型の被害報告を書き連ねているが、これまで見てきたことから明らかなように嘘八百である。
また、在特会は東京支部長秋津昭男の報告 として「当該鮮人は果敢にも一人でなにやら横断幕らしきものをもって攻撃を仕掛け、まずはデモ隊先頭で3人の女性が横断幕を持っているところから攻撃を仕掛けてきました」としているが、これも写真を見れば明らかなように真っ赤な嘘である。それ以前に、会長の桜井誠が自ら「反日左翼は突っ込んでこい!」と煽りに煽ったデモで、彼らはあえて女性を先頭に立たせていたのである。それは、このような場合に「女性を狙った」というデマをしたてあげるために、女性をいわば人間の盾に使ったとも言える配置である。
そのことは、「デモ隊のウィークポイントである先頭の女性3人めがけて突っ込んでくること」について秋津が「感心」していることからも明らかだろう。「当該鮮人が目的のためなら手段は選ばないという固い決意を感じる」などと行っているが、これはそうした「攻撃」に「感心」してしまう自分の心情を存在しない事実に投影してしまっている状態だろう。「本当に子供と闘う在特会」「女性を集団暴行する行動する保守」とこれまでさんざん嘲笑されてきた彼ららしい本音が、こんなところで露呈しているのである。
※:萩尾健太弁護士による「被疑者の不起訴を求める意見書」にしたがって事実に関する不正確な記述を訂正。